地方都市の進学校に通う高校1年生の<ぼく>。何とも言えない、先が見えない不安に押しつぶされそうになっていた。しかし幼馴染の少女が一瞬消える現象を起こし、同級生同士で解明のためのプロジェクトを立ち上げてから、その年の夏は特別なものになっていく――
時間移動を扱ったSF小説で、頭の良い少年少女の一夏を描いた青春小説で、地方都市を政争の泥臭さを扱う政治・東京から離れた地理・地域通貨を使用する経済など多角から構築した都市小説で、とそこまで長くない長編ながら複数のエッセンスが練り込まれていました。
にも関わらず読みにくい重たさは感じず、良い意味で物語を軽やかに語っており、読みやすく理解しやすい内容でした。
ただ物語自体がお気楽なのではありません。
とかく閉塞感に満ちています。
どこにも希望はない。未来はない。
ぼくらはここにいるしかない。
(サマー/タイム/トラベラー2(Kindleの位置No.793-794))
普通より頭は良いが現実に活かす術に乏しく、そもそも理不尽を覆そうとする気力が未来は暗いという分析で阻害されてしまう、頭でっかちだという自覚。
東京から遠く、活気のないそこかしこにほころびが見える街に暮らし、そこから出られない重しがあり、そこで生き続けるのだろうという認識。
家族に降りかかる悪い出来事や病気。
どうしようもない、どうにもならない苦しさを、今瑞々しい時に感じることに胸が締め付けられます。
この閉塞加減はこの小説の語り口で、より強く決定づけられていました。この小説は未来から<かつてあった一夏の想い出>として口述されています。
未来を知っている――未来は決まっている。
良くしようという行動を彼らは取るが、結末は一つに決まっている。より良くなんて、ならない。
でも本当の本当に彼らの目の前には<時間移動>があって、それは確かに今この現実を変えるものでありました。
ここでまず時間移動があるのだと主人公たちが認識した際の描写が秀逸というか、非常にリアルでした。現実が歪む、その瞬間の切り取りと言うのでしょうか。
だから、いなかったんだ。悠有は。
赤と金色の夕焼け空、どこまでも続く人工的な田圃、それから四人のぼくら。四人だけの。
肘と手首が、ぼくの意志とは関係なく、勝手に震えてた。
(サマー/タイム/トラベラー1(Kindleの位置No.1608-1611))
フィクションなのでなんでも起こしうるのですが、同時代小説としての強度が高いからこそリアリティのラインのほころびを目の当たりにした感覚に深い共感を得ることが出来たのだと思います。
その現象をああでもないこうでもないと実験と検証を重ねていく面々の楽しさや、時間移動のルールが徐々に特定されている理詰めの興味はSFの醍醐味かと。
でも過程をわいわいしながら、結末には語り手の主人公を筆頭に誰もが目をそらし続けます。
時間移動を任意で起こすことが出来るようになった幼馴染の少女が<どこ>に行くのか。
決定的なことを先送りにする気質の語り手が、既に決定的なことが起きたと知りながら、とどのつまりを語るのは最後まで避けます。未来がない、喪失に至る物語としてはそうあることしか出来なかったのでしょう。
しかし希望なく終わることは決してなく。
論理的な帰結として幸いなことか不幸なことか、いずれにせよ未だ見ぬ未来は語り終えた矢先から待っているのです。未来の自分は知っているかもしれないけれども、今を重ねていくことでしか未来には追いつけません。
――そして追いつけない未来で少女が待っている。
なんて、美しい帰結かと満足して物語を読み終えました。
以上。リーダビリティの高い秀作でした。
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