公開発表された時には観るつもりが無かったのですが、このMVのあまりの出来の良さに震えて観に行きました。
実写テレビドラマ版は一度しか観たことがなく、風景の引用を理解出来ないため、あまり良い視聴者ではなかったのかもしれません。
ただ、見た感想はうーむという感じ。
なお、これからの記述は私の妄想であり、別の解釈が正しいのかもしれませんと注意をよびかけておきます。
北村薫が以前に「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。」と書いていました。
if、もしも、alternative――現実へのカウンターとしての絵空事。
例えお遊び、空想だとしても、その現実への対抗としての想い/祈りに何か宿るのだと信じて、ありえたかもしれない/ありえなかった嘗てを語るのがフィクションの一つの在り方かと。
ジャンルで言ってしまえば、ループだったり、パラレルワールドだったり。
或いは絵空事は真逆の、克己の象徴でもあります。「選ばなかった幸せだったかもしれない空想世界」に一度浸りこみ、その架空の幸福を否定して超越するために過酷な現実へと帰着する――というのもよくあるパターンです。
まあ、車輪の再発見みたいなことはやめましょう。
では本作は、と言えば、「もしもあの時ああだったらどうなるか――」を非常にストレートに描いています。
何の衒いもなく、マクガフィンたる『石』を投げることで、「もしも」が繰り返されます。
もしも――水泳に勝利していたら。
もしも――逃げるときに見つからなかったら。
もしも――2人の世界に逃げられたら。
映画の粗筋ですとループ的なものになっていますが、世界が繰り返す外的なループじゃないあたりが嫌らしいところです。
恐らくは典道の内的な「もしもの世界」のシミュレーションであり、現実は「典道は水泳で負けてなずなが選ばなかった」世界で否応なく決定されていると思っています。
いずれにせよ起きうるのは真夏の夢。ボーイミーツガールという美しい響き/中学生の逃避行の結末なんぞ、たかが知れています。
最後の方まで言葉にされることはありませんが、現実ももしもにも諦観が流れています。
夏に白いワンピースを着て微笑む、とびっきりの美少女。――大人の言うがままに従うしかなく、母親に手を掴まれればダダっ子のように手足を振り回して泣くしかなく。
美少女に偶々選ばれてしまった、凡庸な中学生男子。――未来があり、まだなにものでもない彼に人生の選択はまだ早く。
最善に最善を重ねた、短絡的な願いの成就が中学生の男女2人の逃避行。その最善を達成してしまったルートのゴールがめでたしめでたしとなるのは非現実的だと、他人も、主体たる彼らも言葉にされるまでもなく解ってしまうことです。
なので、もしもはもしもでしかないし、彼が予想していた通りもしもは必ず消える――という展開は何の驚きもなく、観ていて心に引っかかるフックが全くありませんでした。なんというか、そりゃそうだよね、と。
最初の『克己』ではないですが、単純に刹那の衝動の物語にせず、折角「もしも」の積み重ねを語ってきたのなら、「もしも」から醒めて今ここにいる現実をどうするかを知りたい、と思うのが個人的な人情で。現実を無視して、「もしも」だけに耽るならば、もっともっと空想を強固にして欲しいですしね。
この個人的な不満が最後のシーンへの多大な期待に繋がります。ささっと読んだ限り、あの点呼のシーンはノベライズにはありません。劇場アニメにおいてのみ描かれます。
当然のように呼ばれず教室に居ない少女/そして点呼されても応えない名前の少年。
あの日幾重にも失敗した彼が何をしようとするのか――そこに最後の神秘/物語が宿るのではないかなあと。
その他について。
音楽について。最初にMVを取り上げましたが、『打上花火』は名曲かと。この歌だけは後世に残るのではないかと。
映像も良かったです。特に唯一のヒロイン・なずなのビジュアルは、メインにすえるにたる格を備えていました。トイレで浴衣を脱ぐとかちょこちょこあるサービスシーンは眼福でした。
キャラクタについて。等身大に近く、誰しもに一長一短があり、安易な共感を拒絶していたのはテーマにあっていたかなと。個人的には担任女教師の妙な生々しさが気に入りました。田舎で出会いが少ない中。向かいの席に座る同年代の男とぐだぐだしながら男女の仲になってしまう性的な閉塞への空想が溜まりません。
以上。重ねて言いますが、上述したのは私の妄想です。見返すことはないのでこの妄想をうっちゃるために書置きしました。MVと主題歌だけは定期的にリピートすることにはなるかなとは思っています。
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