しがないの大学院生の森久保与夫はインポテンツの悩みを抱えながら官能映画を観ていた。
やはり勃たないことに絶望し精神分析医の催眠術を受けたところ、メンデルの法則を発見者だと彼は夢を見ながら囁いた――
という冒頭から始まるSF小説。
序盤は大学院生の冴えなさが強調して描写されます。テレクラで女性に迫りボーイに殴られたり、研究室にゴキブリが出現し狂乱して椅子から転げ落ちながら殺そうとして失敗したり。駄目だなあ俺ってと自分に絶望して鬱々夜の街を歩いていきます。
これだけではどの方向に行くかはわからないのですが、そこかしこでその後の予兆がばらまかれます。
例えば与夫の見た夢は進化をたどっているかもしれないという予測。
例えば夜空に浮かぶ<木星大気圏に墓標を建造することが決定された……>という文字。
例えば隕石のアミノ酸の配合。
なんだこれは、なにがどうなっていくのか、と書かれる小説内の現実に疑問を持ち、精神分析医が誘拐されたのを救出しにいく中盤へと移行していきます。
そして敵が宣言され、何もかもが壊れていきます。
「これでわかったでしょ?」
うるわしがため息をつきながら、与夫をみていった。
「あなたの戦うべきというのは進化なのよ」
(P125)
攫われた人を掛けられた罠をかいくぐりながら助け出そうとするサスペンスがそもそもの"今ここ"のあやふやさで身の置き所がない不安で底上げされ、そして全く別の世界のルールに徐々に置き換えられていきます。
その破の過程は実に驚愕に満ちていました。徐々にというのがいやらしいところで、何かがおかしいけれども、ふと気づいたら今までと全く違う立ち位置にあった、というのが本当に上手い手付きでした。
これぞSFの醍醐味。これぞ作者持ち味の、日常が崩壊していく"いわゆるゲシュタルト崩壊"と、主観が崩壊していく"いわゆるプレコックス感"かと。
さて、敵は進化。
『メンデルの法則』を発見した君は、人類を進化から救わなければいけない――
ではどのようにして、というのが終盤なのですが、これがまたいやはやというぶっ飛び具合でした。
どこまで跳んでいくのは不安になるぐらいの物語のエスカレーションというのはめったにあえるものではありません。作品の論理としては全く正しい帰結へと爆走していくのですが、その論理があまりにも膨大な熱量のお話を紡ぎだすと、どのように正しく理解していけばよいのかちょっとついていけない時もあります。しかしついていかないとあっという間に物語の推進に/物語の進化に振り落とされてしまいます。
でもまあ、その論理、その熱量が実に格好良い。以前の別の本の感想でも書きましたが山田正紀のSFって本当に格好良いんですよねえ。
ここで一例を上げればクライマックスにふと訪れた静謐。"進化博物館"で螺旋階段を登りながら進化を追体験する一幕のこと。
「いちばん上にはなにが描かれているんだろう?」
与夫がつぶやいた。
「さあ、なにが描かれているんでしょうかね……ぼくはとうとうあそこまでは行けなかったから……」
銀が首をひねり、どことなくさみしげな口調でいった。
「与夫さん、もしかしたらあなたなら頂上まで昇りつめることができるかもしれませんよ」
「そうかな」
与夫は口のなかでそうつぶやき、二、三秒、銀の顔をみつめてから、その視線を進化博物館の上端に戻し、もう一度口のなかでつぶやいた。「そうかな……もしかしたら、行けるかな……」
(P389-390)
いやあ、ここらへんのわかっちゃいるけど訪れる驚愕と興奮には、もうにやにや笑いしか浮かびませんでした。もう本当にこういうの大好きなんですよ。
そして進化に強制的に押しあげられたステージで何が待つのか、最後の敵とは何なのか――。
ああ、もうほんと、これぞSF!
以上。古びていますが、今なお読んでもその熱さにはやられてしまいました。
- Link