ぼくらは都市を愛していた 雑感

 神林長平氏による長編SF小説

 本作は情報軍所属の綾田ミウ中尉を視点人物に情報震によってデジタル情報が破壊され崩壊しつつある世界の東京を彷徨うパートと、かつて援助交際をした少女を未だに心で思う中年男性が公安警察官として体感通信の実験台にされながら首を切られて殺された少女の事件を追うパートが交互に語られていきます。
 最初はどう合流するのか見当がつかない2つの時間軸が絶句する交差を果たすのはちょっとした感動を得ました。良い意味でもそれなりに悪い意味でも、狐につままれたと言いましょうか。ある種のロールプレイとして類型をいくつか思い浮かぶのですが、その展開で救い上げる主題と文章による芸でここまであやふやなものをよく書き上げるなと。
 言葉によって「わたし」と「ここ」の輪郭が崩れていく――それこそがこの作者の一連の作品群で味わう感覚なのですが、本作でも当然のように貫かれていたのです。

 「わたし」が「少女」を殺した、とわたしは言います。
 しかし、そこから先の認識は何もなく。

 わたしが、やった。だが、問題は、わたしは思う、そのわたしがだれなのか、わからないことだ。ガイシャの女がだれなのかも。この若い女、少女は、いったい、だれだ?
   (ぼくらは都市を愛していた(朝日文庫)(p.71))

〈ようするに、こういうことでしょう〉と寒江香月は、顔をわたしに向けて、腹で言った。〈やったのは自分だということはわかっている。だが、その自分がどこにいるのか、あなた自身にもわからない〉
   (ぼくらは都市を愛していた(朝日文庫)(p.103))

 犯人は自首していて、被害者の死体がある。
 しかし「わたし」は誰で、「少女」が誰か、わからない。

 この事件を追うパートが失われて判らない情報を追い求めていく追体験であれば、未来の崩壊した世界のパートは情報を失っていく経験です。
 必死に任務をこなし、日々失われないためにアナログとして自筆の日誌をつける毎日――だが、しかし、と。

実際、書いていたという記憶はあり、その自分の記憶は正しいだろう。記憶のほうが、この、なにも記載されていない戦闘日誌の頁という現実よりも、正しいのだ。つまり、記憶のほうが正常で、記載された頁がない、というほうが異常だ。当然、そうだろう。書いたはずの手書きの文字がきれいに消えているというのは常識ではあり得ない異常現象であり、記憶のほうが間違っていると思いたくなるのも無理はないが、現実に起きている現象が不合理だからといって、その事実を認めようとしないのは、この戦闘、情報戦における敗北、負けだろう。
   (ぼくらは都市を愛していた(朝日文庫)(p.107))

 失うと判っていたデジタルの記録は消えさり、アナログのものも手元にない。自分の記憶と認識を最後まで信じられるのだろうか、と問いかけられて行きます。

 こうした2つの信用のならない語りを通してあやふやになったものたちを目の当たりにしながら、携帯メール・画像検索・ARタグ・仮想現実など先端ではない既に日常に溶け陳腐にも等しいテクノロジと援助交際・上下関係・双子といったコミュニケーションとを組み合わせて何もかもが最終的に都市へと結実していく流れは、繰り返しますが、感動を覚えました。
 面白いか、面白くないかで言えば、どちらかと言えば後者よりではあるのですが、この小説のひたむきさは凄い。


 以上。らしいSF小説を堪能しました。

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ぼくらは都市を愛していた (朝日文庫)
朝日新聞出版 (2017-10-13)
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