題名通り、バットマンのヴィラン『ジョーカー』を扱った作品。
前評判に違わず、暴力的な映画でした。
アーサーが酷い目にあってジョーカーになる、という路線からぶれません。なにもかもが悪い方に行くんだろうなあという諦念に囚われて観ることになります。
そしてその通り。全てを無くしていきます。
自覚的にも他覚的にも誰にも顧みられない透明で無敵な人へと、なっていきます。
同時にクラウンの姿で、ふいに手に入れた暴力で、本意ではない殺人事件を起こし、その余波は人を大いに扇動するものになっていました。
それは舞台に立ちギャグを飛ばすだけでは決して生まれなかったムーブメントでした。
だから彼は意図せずにたどりつき、意識してなったのでしょう。
成りたかったコメディアン/ジョーカーに。
視点と光と闇とを計算しきった映像美と、箍の外れた笑い声と共に、ジョーカー誕生の破調が語られるのですから、共感は兎も角没入するのは間違いなく。
例えば階段をあからさまな比喩、人として登る苦しさと、ジョーカーとして降りる軽やかさとして用います。そう言う、わかりやすさ/伝わりやすさがより頭に理解を叩き込む暴力的な映像へと直結していました。
特にジョーカーとして階段を降りるシーンは見事な名場面として語り継ぎたいところ。
しかし延々と没入させた上で、さて、ジョーカーが自らの過去をこれまで語った時、真実はそこにあったことがあるのか――と問いかけて物語は閉じられます。
いつまでが真実で、いつからが虚構だったのか。
シリーズ的にも、メタ的にも、これ以上ない締め方ではありました。
以上。ヴィラン物として完成度の高い快作でした。
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