映画『夜は短し歩けよ乙女』 雑感

 私には、色々と彼女に聞きたいことがあったのだ──彼女はあの春の先斗町で、どんな夜を過ごしたのだろう。あるいは夏の古本市でどんな本と巡り会ったのであろう。そして秋の学園祭では、なぜあんな大芝居の主役を担う羽目になったのであろう。
     (小説『夜は短し歩けよ乙女』)

 原作は半年の物語。春の夜明けに冴えない『先輩』は黒髪の『乙女』に真に恋をしたことから始まる、一連の恋物語。或いは京都という古都故に妙な説得力を持つ、現世と幽世の淡いで起きるドタバタを描いたマジックリアリズムの名作。
 映画ではそのオモチロオカシイ半年をなんと一夜の御伽噺に圧縮していました。
 酔っ払いが先斗町を蠢いた春も、本を繋ぐ糸が神様と私により直された夏も、騒々しい学園祭が繰り広げられた秋も、風と風邪で寒々しかった冬も。全ての断続した筈の時間は続いていて、黒髪の『乙女』が一夜かけてずんずんと歩いていきます。彼女が主人公
 まあ結構、無理がありました。
 そう無理がありましたが――かなり強引に映像として結びつけてしまい、なおかつ無理やりですが大筋で成功してしまっていました。
 時計の針の進み方がモチーフとして繰り返され、それぞれの登場人物は年齢と感性に基づき『固有の時間』の感覚がずれていることを示されます。少し年上の面子は数か月単位が、還暦祝いの面々は年単位があっという間に、化物の李白は百年・千年が目にも止まらぬ速さで過ぎていきます。
 そして我らが主人公たる黒髪の『乙女』はと言えば、映画オリジナルの台詞でこう示されます。

 「君といると夜が長くなる」

 ただ一夜でさえ、おもしろおかしそうなものにとびつきイベントを起こし巻き込まれる彼女にとっては、逆に悠揚になるのでした。
 固有の時間のずれをそうした彼女の視点で解釈することにより一夜として表現しえたのですし、そうした表現は正しさを帯びていました。吃驚仰天の映像の妙技かと。


 時間操作に関してはここらへんでおいておき、その他に関して。


 人物設定。原作より寄り黒髪の『乙女』のキャラ付けは受容を減らし強さを増し、冴えない学生の『先輩』はよりしまらなくなっていました。原作のお互いどこかぼんやりとした性格が大好きだったので、この改変は好きではありませんが、一般受けするラインにはなったのかなあと。李白に関しても時間のずれを描くにあたってラスボス的になるのはしょうがないですが、ちょっと悪く書きすぎかなと。春の飲み比べは偽電気ブランを交わし合う2人が同時に幸せになったのだから意味があるのですし、李白のギブアップの台詞と動作は穏やかだからこそ穏やかな飲み勝負の終わりとしてふさわしかったと思っています。

 
 シナリオ。一夜で語り直すにあたって筋はいささか変わっていますし、取り分け学園祭編はほぼオリジナルになっていました。ラブコメとしては今風ですし愉快さは増していてクオリティとしては文句はありません。
 ただ正直全く気に入りませんでした。原作の「第三章 御都合主義者かく語りき」は頭に林檎が弾んだ縁が複雑に拠り合い、偶然のイベントが重なり、必然的にあまりにも美しい絵に落とし込まれる大傑作な章でした。それをああ変えられると、いやあ絵だけにせてもねえとけちをつけたいところ。
 原作好きなら原作読んでいろよというのは、その通りなのですがね。


 映像。大体良かったのですが、クライマックスの冬に先輩と乙女が夢で出会う映像は好感度がかなり下がる代物でした。先輩が天狗から飛び方を習ったのをすっぽかしているので片手落ちになっているのと、唐突なカウボーイを筆頭とした脳内ドタバタとで、短いわりに締まりがなく冗長でした。数回見ればまた違った感想が生まれるかもしれませんが、あまりそんな気になりませんでした。


 以上。原作の一夜への解釈は興味深かったですし、観ていておおよそ楽しんでいましたが、積極的に好きな作品にはなりませんでした。恐らく意図的にすくい上げられなかったのでしょうが、原作の冴えない青年に捧げる抒情こそが好みの中心でした。そんな訳で原作を本当に好きだなあという再確認にはなりましたね。

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 OHP-映画『夜は短し歩けよ乙女』公式サイト