舞台はロボティクスが少しだけ発達した現代。
AI開発コンテスト『チューリング・プライズ』で、ロボットのケンイチが天才科学者フランシーヌを銃殺した。
何故かをロボット学者のユウスケが追い求めるうちに、ロボットの知能とは、人間の知能とは、そして知性を持つ<自分>とは何か答えを迫られていく――
ジャンルとしては所謂SFミステリ。
読み進めるのが結構厄介な小説でした。
視点は『ぼく』という一人称なのですが人間のユウスケとロボットのケンイチが主体として交互し、異なった時系列とイベントが一つの章で混在しながら連続して書かれています。
入れ子構造であるというだけでは説明がつかない読みにくさでした。
そして知能を巡る知的冒険である仕掛けが小説の読みにくさに輪をかけていました。
その仕掛けは普遍的な学術の問題と、ミステリの問題と、SFの問題とがモザイクのように入り組んでしました。
一言で言えば――語り手を信じられるのかという問題で。
――知性の主体としての『私』『ぼく』は知性の主体として正しいのか。
――語り手は意図しているにせよ、意図していないにせよ、聞き手に偽っていないか。
――語り手の知識は語られる対象を物語るに足るのか。
『ぼく』が状況に振り回される、さっぱり全体像が判らない状況で、『小説』はがんがん問いかけてきます。
「(前略)このときからデカルトは私たちに宿題を遺したのだ、〈私〉はどこにあるのか、人間や機械にとっての〈私〉とは何か、とね。(後略)」
「(前略)あのさ、どうして人間はみんな自分ひとりの自我しかないんだと思う?(後略)」
「祐輔、気づいてないかもしれないけれど、あなたがやろうとしていることは、デカルトからヴィトゲンシュタインに向けて補助線を引いたその先にある未知の領域なのよ。それは論理学と倫理学だわ。(後略)」
「機械は考えることができるか?」
人間とは"身体と脳の二重密室"に囚われた存在だと喝破し、その密室の中――フレームの中で惑うのを嘲りと苛立ちと無常をこめて対峙者は語っていきます。ロボットのケンイチを密室から出すために、そして人間のユウスケを新たな視座に据えるために。
ありとあらゆるところで象徴に満ち、デカルトとヴィトゲンシュタインと鉄腕アトムと2001年宇宙の旅の引用と活用の情報が乱れ飛び、語る首座の認識は常に変動し、そして読み手は用意された結論へと誘導されていきます。
この小説の過程のダイナミズムは全て認識の変容にこそ捧げられていると言っていいのかもしれません。
結果として今読んでいる文章が常に懐疑の対象になりえる小説が出来上がっていました。
面白いかどうかは棚に上げておいて、正直な所、怪作の部類に入ると思います。
ただエンターテイメントかと問われれば、間違いなくエンターテイメントです。
過去作『八月の博物館』以降顕著にみられるようになった、【物語への信頼】は本作においても確かに認めます。
というかむしろメインテーマでもありました。
物語――起きたことを小説として文章にされることへの赤裸々な信頼は赤面するほどで、でも多分揺るがしえない根っこなのでしょう。
その物語への信頼を通して、混乱した認識の小説の奥深くで、少年であったユウスケと少女であったフランシーヌの関係は美しいものへと昇華されていました。
「あなたは何になりたいの?」
ぼくはチームメイトに顔を向けた。フランシーヌはいつもこのように何の前触れもなくぼくに質問を投げかけてきた。
「将来何をしたいの?」
たぶんフランシーヌの中では整合性がついているのだ。主催者の言葉からさまざまな職業を思い浮かべ、それがぼくへの興味に繫がったのだろう。でも当時のぼくにはそこまで考えを巡らせる余裕がなかった。フランシーヌの口調は強く、一度問われると逃れようがなかった。
「そうだな……」ぼくは手を止めて考え込んだ。そして言葉が口をついて出た。
「作家だ」
林檎の木の枝が風を含んで音を立てた。
驚いていたのはぼくだった。それまで自分の将来をそんなふうに語ったことは一度としてなかったからだ。小学校の卒業文集にも、学校で提出を求められた作文や感想文の類にも、担任に見せなければならない日記にさえも、決してそんな願いを記したことはなかった。言葉として表現したことはなかった。それをフランシーヌにいきなり話したことになる。
以降に続く、人形に意志を宿した問答。
そして少女が希ったチェスの対戦。
彼と彼女の幼い頃のささやかな物語が未来において人間を拡張する事件を引き起こす。なんて、綺麗なお伽噺であることでしょうか。
以上。読み耽りました。もう二度と読まない気はしますが、忘れえぬ一冊となった気がします。
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