開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU― 感想

 18世紀のイギリスでは解剖学は下に見られ、研究ための遺体を手に入れるのも一苦労だった。
 ダニエル・バートンの解剖学教室が、墓場から違法に購入した妊娠6か月の妊婦の死体を解剖しようとした時、治安隊に踏み込まれる。
 死体を特殊な暖炉に隠して事なきをえて、再度解剖を始めようとすると、なぜか出所不明の死体が2体も転がり出てきてしまう。1体は四肢の切り取られた死体、もう1体は顔が潰された死体。
 どうして死体不足の解剖学教室で死体が増えたのか――


 幾分か猟奇的で、どこかユーモラスな謎で始まる時代ミステリの長編。
 増えた死体の謎を盲目で厳格な治安判事が率いる治安部隊が追い、解剖学教室の個性的で憎めない面々が事件の解明を検死で手助けしながらも教室を守るため独自に動いていきます。
 ミステリとしては、1770年における最先端の解剖学と科学に基づいて死体に隠された秘密が暴かれて謎の解明に繋がるという過程を取ります。この、そもそもの"発達段階の解剖学"を取り上げた着眼点が秀逸な上に、それを同時代的に過不足なく捜査に反映にさせた手腕は見事。


 ただし本作が時代小説たる所以は文明レベルを再現しただけではありません。目論見として、謎と謎の究明と共に、その時代における人物の心の在り方を書こうとするものでした。
 心の在り方――正義と倫理のありか。
 18世紀のイギリスでは民間人の誰かが訴訟の費用を負担して告訴しないと裁判にかけられません。また裁判もよほど証拠を固めないと、買収によって黒いものも白くなる風潮でした。
 故に、犯罪を犯したと誰もが知っていても公的に裁かれないことはありえました。また犯罪を犯していなくても証拠が正しいとされてしまうと裁かれてしまいます。
 理不尽な状況に憤ることはあれど、その当時の在り方としては当然であると、どの登場人物も捉えています。
 その司法状況に立脚し、犯罪者側は判明しても裁かれないことを目的に含めて犯罪を組み立て、捜査側は決して覆されないような決定的な証拠を積み上げようとます。証拠を積みあげられなかったら、誰も告訴しなかったら、そこに裁きの場への階段はなくなります。
 この現代から見ると特殊な状況と特殊な倫理観における丁々発止もまたミステリとして興奮するポイントでした。


 こうした時代特有の物の捉え方のさらにその先を本作は最後に提示します。
 たとえ上手く行って裁かれないとしても――罪を実際犯した事実は変わらない、と。
 では人間であることとキリスト教に立脚した倫理から、同胞殺しをして悔いながらも裁かれなかった者の心はどう動くのか。
 また裁けなかった者はどうふるまえばよいのか。
 そこに時代を超えて共通になりうる、人物固有の魂の問題が関わってきます。

「ナイジェルが右手を負傷し、細密画が描けなくなったとします。先生は彼を見捨てますか」
 バートンは考え込んだ。そうして「わからん」と答えた。「あるべき答はわかっている。どういう状態になろうと、大切だ。そう答えれば、世間は満足するだろう。だが、私はそういう事態になってみなければ、自分の気持ちがどう動くか、わからん。不憫で愛おしく感じるか、それとも逆か」
「僕が頭に傷を負い、思考能力がなくなった場合も同様ですね」
「すまんが、答は同じだ。どうも冷酷なようだが、そうとしか言えん」
       (開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU―(Kindleの位置No.1471-1477))

 その人物がその人物でありうる何かが欠ける事態で、先生が最後に抱いた感情は何か。
 幾重もの屈託が交差するラストは心に深く染み入る余韻がありました。


 以上。時代ミステリの秀作でした。カバーのデザインも素晴らしいですし、良い本かと。

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