呉論 「Gift Cleared,或いは恋心おーばーどらいぶ」

 初出:『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人×30説+』に掲載

  • 1.紹介

 呉(以下敬称略)について2010年6月27日現在判明していることをまとめてみます。呉は『Infantaria』(CIRCUS NORTHERN、2001年1月26日)において呉一郎名義でデビューし、以降CIRCUS社の『水夏』(CIRCUS NORTHERN、2001年7月27日、第1・3・4章)と、呉名義で『D.C.』(CIRCUS NORTHERN、2002年6月28日、ことり・頼子)に関わりました。
 それからCIRCUSを退職し、同時期に退職した恋純ほたるに誘われてMOONSTONEを立ち上げました。その後は企画・シナリオライターとして『あした出逢った少女』(MOONSTONE、2003年5月30日)、『何処へ行くの、あの日』(2004年6月25日、MOONSTONE)、『Gift』(2005年5月27日、MOONSTONE)、『Gift〜にじいろストーリーズ〜』(2006年1月27日、MOONSTONE)、『Clear』(2007年8月24日、MOONSTONE)、『Clear クリスタルストーリーズ』(2008年5月3日、MOONSTONE)、『マジスキ〜Marginal Skip〜』(2009年4月24日、MOONSTONE)の製作に関わりました。2010年6月25日には最新作『Angel Ring〜エンジェルリング〜』が発売されました。

  • 2.導入

 呉が初期に担当した作品、『水夏』や『あした出逢った少女』、『何処へ行くの、あの日』は特徴のある暗い雰囲気の青春物ばかりでした。特徴は乱暴にまとめると叙述ミステリの手法を用いてトリッキーな展開をすることであり、時系列を巧みに操って、熾烈な現実や苛烈などんでん返しを繰り出す手腕には素晴らしいものがありました。あとクローンや時間移動するドラッグなど安っぽいガジェットの使い方も巧みでした。なお、こうしたミステリへの傾倒が深いため、呉一郎という名義が夢野久作の作品『ドグラ・マグラ』の重要人物からとられていると推測されています。
 しかし『Gift』以降作品の雰囲気が大きく変更され、明るい学園物ばかりを企画し製作するようになりました。戸惑うファンも多く、私も例に漏れず戸惑いました。けれども『Gift』『Clear』『マジスキ』と作品を重ねるに連れて、標準的な美少女ゲームの学園物の枠内にあり、あくまで美少女ゲームでありながら、何処か変なベクトルを孕んでいるのではないかと感じ取るようになりました。
 本論は私の推測に基づいて『Gift』『Clear』を分析し、呉が成し遂げていることに迫るのを目標として書きました。

  • 3.Gift

 本作は“Gift”という超自然の設定がメインに据えられています。この“Gift”とは心が通じ合った者同士ならば相手にルール内で何でも物質的な物に限らず何でも贈られるという能力です。経験則から判明しているとされるルールは“1.病気を治すことや死者を蘇らせるなど自然の摂理を乱す事は出来ない、2.試験を突破するなどの利己的な事には使えない、3.第三者への直接的な影響力はない、4.悪事には使えない”というもの。
 そして、空にかかる消えない虹という舞台設定、幼い頃別れた義理の妹や隣に住む幼なじみといったありきたりな人物設定、修学旅行やミスコン、夜学園での肝試しといったありきたりな学園事情などなど、美少女ゲームではよくあるものになっています。
 主人公もスタンダードな美少女ゲームの造形です。家事洗濯は一通りできるが、空気読まない(良い意味では物おじしない)おちゃらけた性格であり、紙一重の突飛な言動を取るように描写されます。そうした描写から浮かび上がってくるのは社会生活上難がある人物です。そして主人公がそうなった理由こそが、この作品の始まりとなっています。
 簡単にネタを割ると主人公の母親は別世界から来た魔法使いで、主人公の父親と結婚して子供を設けます。それは死ぬ覚悟の上での妊娠で、もともと体が弱かったために夫と子を遺すのは判っていました。最大の心の残りは子供の情操成長でした。夫は朴訥とした善良な人間ではあるものの、極めて忙しい仕事につく仕事人間で喜怒哀楽が判りにくい不器用な気質です。簡単に言えば駄目な父親であるために、子の情操が正しく育つのか危惧していました。だから、想いを通じ合わせることを可視化するGiftを町全体に贈ったのです。自分の子が想いとは何か父親以外から学べるように。はた迷惑極まりないのですが、今は捨て置きましょう。
 そんな訳で上記したように仰々しい母親の甲斐虚しく、ゲーム開始時点では危惧が具現化しているのですが、本作の幕が開かれた時から母親が意図していた主人公の感情の学習が始まります。つまりプレイヤーは主人公に沿ってプレイしていく内に、主人公がヒロインたちと触れ合うことで成長していく様を見届けることになります。
 縁ルートでは自己犠牲の尊さと残される側の辛さ、綸花ルートでは生者と死者の厳格な峻別、千沙ルートでは己の幸福を追求するあくなき人間の業、霧乃ルートでは直接的に恋とは何かに触れていきます。こうした主人公が直面する問題は判りやすく明文化されています。例えば縁のルートでは縁が主人公に対して、


「自己犠牲は、どこまでなら可能だと天海さんは考えますか?」
 (『Gift』4月20日

 と問いかけますし、千沙ルートでは


「“幸せ”ってなんなのかなって思って」
 (『Gift』4/16)


「人は与えられた幸せで満足できるのかどうか」
 (『Gift』4/22)

 など再三疑問が呈されます。
 また人と人との関係に接していくのですから良いことだけではなく、自分勝手の醜さやストーカーじみた恋愛にも直面します。けれども清濁を経験し、だからこそ主人公は人間的に成長していきます。後半に行くに連れて意味のないおちゃらけは影を潜めますし、エンディングでは極めて全うな社会生活を送るようになります。そして情操教育がなされた可能性の世界を複数見た上で、成長して一人前になったからには母親の想いでありギブスでもある“Gift”を返還しなくてはならないとする莉子ルートに綺麗に繋がります。
 という感じに云々と語ってきましたが、“Gift”という設定が主人公の感情教育という展開に対して有効に機能しているにも関わらず、物語の内容自体を冷静に評価すると納得出来るとは言い難いです。繰り返しになりますが、“Gift”は息子の情操教育の為に母親から生み出されたという名目ながら、ゲーム開始まではほとんど機能していません。そこは親の心子知らずと言いますし、社会的な下地を作っていたと擁護出来なくもありません。けれども、“Gift”による情操教育が始まった地点をゲーム開始と同じとして同期を目論んだからために、ゲーム内の1ヶ月足らずの期間での主人公の成長は判りにくいものとなっています。“Gift”という設定がなければヒロインと結ばれて問題解決してハッピーエンドというごく普通の流れとして受け入れられるのですが、“Gift”の目的が主人公の情操教育であると最後に種明かしされたからには、そのように機能出来ていないのは不出来と言わざるを得ません。
 しかし見事に構築された展開を示す全体像からは美少女と恋して結ばれるという美少女ゲームの枠を主人公が成長させるため用いようとした意図が確実に見受けられます。しかもただ単にプレイと共に精神的に成長するだけではなく、主人公は用意された枠の中で成長しなければならなかったことをプレイヤー以外誰にも知られないままにします。この意図がこれっきりならば呉シナリオの以前までの作品群のように変わった仕掛けがなされている単体として受け入れて済みます。ですが、次回作『Clear』において主人公から感情が取り除くという極端な鉈を振うことで主人公のプレイ開始時点での感情消去を先鋭化し、感情を得るまでの道程を遥かに困難にします。にも関わらず、やはり学園の設定は基本的には日陰者ばかりであった『何処へ行くの、あの日』と異なり、『Gift』と同様に学園のアイドルがいたり、島民の人気者がいたりと明るい人間関係に入り込むことになります。ことここにおいて『Gift』から地続きで何かをなそうとしているのではないかと感じました。
 しかも感情が失われている事を主人公は他のキャラクターに隠します。後述しますが感情を失っていることは主人公がヒロインと結ばれようとする動機になるにせよ、主人公とヒロインが直面する物語には殆ど関わりません。主人公視点による地の文で感情がないことの苦悩と隠蔽する苦労とが語られるのですが、他の人物、ヒロインに伝わることはありません。見続けるプレイヤーは『Gift』の時と同様に視点人物の立ち位置に関して不均衡な知識を得ることになります。
 疑問をまとめると、感情を得るまでを描くことへの傾倒と、プレイヤー以外への隠蔽の2点になります。疑問点について考察する前に、次章で『Clear』についてより詳しく言及することにします。

  • 4.Clear

 本作の主人公は優しさや愛などの感情が欠落しています。その彼の精神に基づいてヒロインたちの行動が描写され、優しさに立脚したバイアスをかけずに分析します。例えば美姫が行っているボランティアの不条理、誕生日を祝うことへの不可解、恋愛感情の不可思議さを否定するのではなく、理解できずただ単純に疑問に思います。象徴的なイベントして、道にあった動物の死骸を邪魔なのでゴミ捨て場に捨てようとしてヒロインに止められます。そんないわゆる美少女ゲームの当たり前のイベントとしてある筈のヒロインたちの言動が不合理な行動・思想として宙に浮かせます。
 ここで感情を持っているプレイヤーは主人公と完全に乖離するのですが、主人公も普通の人間と乖離していることを判っています。これは『Gift』よりも進化した部分です。ただでさえ自分は血を見ると堪らなく吸いたくなる吸血癖のある異様な存在で、そのうえ優しさがなく、人間になれないし、人間のふりをするのは恥ずかしい、でも、それでも人間の世界で生きるのを止められないと、主人公は自分の出発点を思って欠けた感情で苦悩します。


 人間のフリの延長はもういやだ。
 (『Clear』)


 せめて。
 せめて、一度でいい。
 一度でいいから俺が俺を忘れる瞬間が来てくれ。
(『Clear』)

 と心中で慟哭ながら。そうした主人公を知っているのはプレイヤーだけであり、ばれないようにびくびくしながら必死で自らの感情と表に出す言動との齟齬を作り出して、人間であろうとしているのを知っているのもプレイヤーだけです。そして主人公が社会で生きるいくためには、知りえるのはプレイヤーだけでなくてはならないことも承知させられます。そのために随所で挿入される、涙を流したい/優しくなりたい/感情を知りたい/感情を身につけたいという言葉に存在の乖離を超えて素直に感情移入させられます。
 そして主人公が自らの目的を感情を入手し幸せになることと理解していて、更に幸せを人を好きなることと定義します。そのために主人公の視点を通してヒロインと付き合うようになることと、プレイヤーと主人公だけが判っている主人公が幸せを追及して行動することという目的が一致します。この目的の一致が語り口が弱く納得し難かった『Gift』から感情の喪失を推し進めた最大の進化した点となります。比べると主人公が自覚しえて悩む分だけ理解しやすくなっていますし、目的も明確になっていて言動の描写がぶれないためプレイしていて納得出来るようになっています。
 さて実の所、マイノリティな存在であるのは主人公だけではありません。他の登場人物たちの大部分は心の何かが欠けていたり、一般的な人間とは異なる特徴があったりします。そのため他人との接し方が歪み悩んだり、異物として弾かれたりします。ひいては彼らは自身で在ることを好きになれず、また誰も好きになれなくなっています。それに作品の舞台は内陸から遙かな島であり、その中でも彼岸と此岸に分けられています。これら全て、種族的にも、地理的にも、一般社会から隔絶した状態は「透明(Clear)な壁があるよう」と評されています。設定全てがマイノリティを如何にして作り出すかに腐心されていると言えます。
 しかもヒロインたちのマイノリティとしての特徴は美少女ゲームのビジュアルに通じています。例えば、島に住む人間とは異なる種族の外見の一つとしてストレートなネコミミを出された時にはどうしようかと思いました。けれどもネコミミ付きと露呈する前は美少女的な外見と性格のよさで島のアイドル的な存在だったヒロインが、ネコミミが露呈することで外見上はより可愛くなったにも関わらず、慕われていた島民から人ではないと差別されるにあたって唸りましたし、その状況を主人公とヒロインの二人で受けいれた結果として地の文で披露されるまとめが振るっていました。


 誰も人を捨てることは出来ない。所有していないのだから。
 (『Clear』)

 そんな当たり前のことを言わなくてはならないぐらいに、他者からの規定によって自分を失っていた、ということですね。大事なのは個が個として生きていくことであるという答えは『Clear』という作品が導き出す答えに繋がっていくのですが、今は関係ないので置いておきましょう。
 閑話休題。そういう具合にヒロインの問題を解決する美少女ゲームの体裁をとっていて、ヒロインのマイノリティとしての問題を主人公が共有します。にも関らず前述したように、主人公の問題はヒロインは知りえません。そして問題が解決して物語が終わる時には主人公の問題は彼女の知見とは離れた所で解決しています。不均衡な話です。でも終わりの時点で主人公はヒロインと結ばれて苦悩していた感情が戻ってきて望んだように幸福になったという結果があるから全て良し――とすればよいのでしょうか。確かに感情がこめられていない描写を通して透明な壁の中でもがく主人公の有様を見ていたからこそ、感情がない描写を通された為に身びいきなしに真にマイノリティであると認定されたヒロインたちと結ばれて開放されたカタルシスは素晴らしいものがありました。
 しかし、地の文全てが優しさを無くした主人公の独白であることで主人公の苦悩をプレイヤーは忘れさせられなかった同期に釣り合うかと言えば、否。それではあまりにも主人公が味わった苦悩が、慟哭が、克服が軽くなり過ぎます。
 ではどう評価すればいいのか、が本論の主眼となりますので、主題に近づいた所で次章の考察に移ることにします。

  • 5.考察

 以上で『Gift』『Clear』について語ってきました。
 3章でまとめたプレイ時に変なベクトルとして感じ得た元であろう疑問を再度あげると、感情を得るまでを描くことへの傾倒と、プレイヤー以外への隠蔽です。そして『Gift』『Clear』のプレイを通して、2つの疑問の答えの鍵になるのは“幸せ”と捉えました。
 感情の欠けている主人公は無自覚にせよ自覚的にせよ、己の感情形成=“幸せ”のために動きます。それで主人公の“幸せ”はヒロインと見事に恋愛することであると予め定められていたにせよ己で決めたにせよ提示されます。つまり感情を得るまでを描くことと恋愛を描くことが同期していて、物語の中で恋愛する意義が強められています。
 プレイヤー以外への情報を隠蔽されることで、4章の最後で述べたように全体像を知る者がいないため“幸せ”を誰も正しく評価しえません――マクロな構造を見る=主人公の一人称を見届けることが可能なプレイヤー以外は。ここで逆にプレイヤーがプレイすることで呉が意図した登場人物たちの“幸せ”が完成すると言い換えることが出来るのではないでしょうか。『Gift』以前の作品をプレイしていれば判りますがメタ構造を生成するのも十八番ですので、大外れとは言えない推測だと考えています。
 ここでまた感情を得るまでを描くことへの傾倒に関して戻りますと、このややこしい手続きによって恋愛の意義を強められていて、その必要性は兎も角として、“幸せ”の質をプレイヤーの情報が制限されていないマクロの視点と登場人物内の情報が制限されているミクロの視点とで異ならせることが出来、完成のためにマクロを介入させる理由付けになっています。なお、この達成は『Gift』以前のトリッキーな作品から判るように、理性では割り切れぬ感情を描くための技術と情報量の制限するミステリ的な手腕=理性的な筆致は有しているために可能であったのだろうという推測を付け加えておきます。
 まとめると、呉作品は題材と構造と成立させる腕があって、登場人物たちが正しく意味を知らないままに“幸せ”になるシナリオとして生み出されました。プレイヤーがプレイして見届けることで“幸せ”を求めた物語が完成させる為に。ここに美少女ゲームをプレイする意義が生まれているのかもしれない――と締めて本論を終わりとします。